台湾嘉義県東石郷副瀬村富安宮に一人の日本人が奉祀されている。義愛公と神称される明治領台初期の下級官吏森川清治郎巡査である。森川清治郎は、文久元年(1861年)神奈川県の農家に生まれ、身長512寸、小肥りで下顎に胸前に至る美髯を蓄えていた。酒、煙草を嗜むが昔気質の個性謹厳にして品行方正、巧言令色の徒を卑しみ常に清廉身を持し、神仏を敬う事虔誠至極、日本内地に在りては神社仏閣は勿論の事、台湾在任の間も寺廟の門前を通る際は必ず脱帽礼拝し国泰民安を祈願した。


1892年兠木ちよと結婚、翌年独子真一出生、当時横浜監獄の看守に任じていた。1894年甲午戦争勃発、翌1895年馬関条約に依り清国は日本に台湾を割譲する。1897年、森川清治郎は36歳の折単身渡台、同年五月巡査を拝命、宮尾邦太郎麾下に配属し、大埔林(現大林)、打猫(現民雄)、新港派出所を転じて鰲鼓派出所に到り、1900年日本内地より妻子を招いた。鰲鼓派出所は木造台湾瓦葺きの平家建て三軒屋の中央部の一軒で、僅か4半左右の広さしかなく、公務机・書類棚を置いて残る1半の空間が宿舎で、台湾ござを敷いた極く粗末なものであった。


当時、日本の婦女が渡台して偏壌の地に来るのは稀で珍しく、村民達は争って日本人巡査夫人の風采を観、村落は大騒動であった。間もなく隣村の副瀬派出所に転勤する。副瀬派出所は鰲鼓派出所より広く、竹の柱に茅の屋根、表には5間程の竹垣があった。


領台初期、台湾は各地で盗匪が絶えず出没して民心は非常に恐慌不安であった。加えて、環境衛生は悪劣でマラリヤ・ペスト・コレラ等伝染病が発生した。然るに頼る療法は簡朴な秘伝或は神憑の途方に過ぎない。無論教育程度は低く、英国人モンローの統計に依れば、人口42千人の台南でも男子の9割は文盲であった。


このような世情の下で、海に面した辺鄙な半農半漁に生計を頼る寒村副瀬の生活環境の艱苦は言に及ばず更に著しい。森川清治郎はこの実況に直面し、本来の治安維持の任務に配合して教育の普及、環境衛生の観念啓発、農業技能の改善を決意し全身全霊を傾けた。


 先ず、富安宮内の部屋を利用して塾を開き、自費で教師を雇い、文盲の村民を集め免費で読書の課程を設けた。而して嫡子真一が学齢に達したので内地より小学校の教科書を取り寄せ、村民達と共に机を並べて読書させた。勤務の傍ら、暇をみては教室を見回り、日本語は自ら五十音単語・日用語を教え、時々課題を出して成績を調べ、優良者に123等を定め紙・筆・墨を賞し奨励した。若し我が子真一が1等の時は除外し次の者から賞した。後年、真一は子供心に不平で残念だったと述懐している。


部落内の環境衛生の改善に対しては、村民を指導して住家四周に排水溝を掘り汚水を疏濬した。又、毎月1回村民を集めて塩分質農地の改良法、農耕技術の更新の教導に努め、自ら鍬を執って示範し、泥まみれになつてタ方遅く帰宅し、家族に「子供みたいに」と笑われる事屡々であった。勤勉な村民には懐を割いて購入した農器具を褒美に奨励した。


平常管轄区内巡視の都度深く切に村民の生活苦を体し、病臥の者には薬を、貧困の家には金子、物品を恵んで苦境を援助し、沮喪に落ち込む失望感の村民を優しく労り、村落の振興発展を願うのだった。


或る日、村民黄渓が海へ牡蛎を獲りに行き貝殻でひどく怪我をして海中で泣いているのを見付け、直ぐ様海中に入り、2キロメートル余りある家まで背負い介抱した。後に当の本人よりも森川清治郎の方が大怪我をしたことを村民は知り、今更ながら其の誠実さに感泣した。


 1901年(明治34年)は、以後数年間、台湾南部一帯を希有の大旱魃に導いた最初の年である。次いで1902年は降雨更になく、旱魃は益々度を加えた。且つ又凶年故に匪賊が横行し、その掃蕩に部内の壮丁は出役を命ぜられ、更に重苦しい日が続いた。その年の暮のことであった。寒気は前年と変らず厳しく、部内の貧乏人は蒼穹と飢餓の渦巻きの中に年を越さねばならぬ有様であった。併し比較的富裕な階級では越年の準備は整 い、派出所に歳暮の礼として餅やその他の贈物を届ける者も居た。


新年も押し迫った或る日、森川清治郎は部内の甲長等を派出所に集め、歳暮の贈物の礼を述べた後、威容を改めて次の如く語った。「皆さん、ご覧の通り私は政府の一官吏として薄給ながら生活に困らぬだけの俸給を頂いている。お蔭でこんな凶年でも食うに困ることはない。然るに尚又皆さんから年末だとて種々の結構な物を頂いたと言うことは身に過ぎるものである。併し翻って部落民の生活の有様を見ると、打ち続く匪乱と凶作の為に生活の困難其の極に達して、勿論新年を迎えると言って子供等の世話が出来るでなし、餅を作って祝うと言う様なことなど夢想も出来ない状態である。幸い私はここに皆さんから頂いた沢山の餅や礼物があるから、これを皆様の諒解の下に貧しい部落民に分け与えて、共に新年の慶びを分ち合いたいと思う。折角贈ってくれた皆さんの厚意に背くことがない様に前以て諒解を得たい」。


その為部落の人達は貧しいながらも森川清治郎の厚意によって、感謝に満ちた温い新年を迎え得た。このような慈父の如き篤行は枚挙に遑がない。


当時、語言、習慣の異る環境條件の下、且つ又一般に植民地の人々に好感を持たれぬ異民族の下級官吏が任務遂行に伴う困難は想像するに余りある。併し、剛直な愛の執着と、小我を殺して村人と苦楽を共にする不退転の熱誠は終に互いを隔離する厚い障壁を破り、因って全体村民の敬重と愛戴を得たのである。


1902年、台湾総督府は漁業税の賦課を実施、沿海で漁をする小さな竹筏にも税を課した。現今と異り、昔時の警察官は税金の督促も職務の中であった。海岸の僻村副瀬では半農半漁に頼って生活するだけでも精一杯、海に近い農地は潮風に吹かれ海水の浸蝕で痩せ、竹丸太の下は地獄の小さな竹筏で獲れるのは安価な賎魚に過ぎず、村民の3食は千切り干し芋や芋の葉を主にした粗雑な農作物で糊口を凌ぐ現状故、竹筏に課せられる漁業税は苛歛誅求である。村民達は、敬愛し信頼惜しまぬ森川清治郎巡査に上層へ税賦減免の嘆願を依頼した。


部落民から嘆願陳情の依頼を受けた後、一週間程派出所に森川清治郎の姿を見なかった。森川清治郎は、この間、一通りならぬ苦心を払って各部民の財政を詳細に調査していた。無論納税は国民の義務だが、切実に村民の生活苦を瞭解している森川清治郎は現地の窮状を一部始終上司の東石港支庁長園部警部に上申した。が、村民の納税抗拒を煽動していると支庁長の逆鱗に触れ、戒告処分を受けた。


45、定期召集日であつた。定期召集から、その日の午後5時頃帰って来た森川清治郎は部民に対して悲痛な面持ちで語った。「税金のことに就いては、自分のカではもうどうすることも出来ない。却って支庁長より訓戒を受け、同僚に対しても真に面目がない。皆も苦しいだろうが、右のような事情だから国の為と思って快く税金を納めてくれ、私からもお願いする」。語尾は怪しくふるえ、泣いて湧き上がる涙を部民に見せまいとして背を向け、宿舎に帰った。部民達は森川清治郎の悲壮な顔付きや涙を見て、何かしら不吉な予感に打たれ、非常に心痛してその夜は、壮丁5名で森川清治郎に気付かれぬように宿舎の外から見張りしたくらいであった。


 常々、村民と苦楽を共に分ち合い、忠実に皇民化の職務の遂行に徹した森川清治郎の失落感は深い。


 47日朝、珍しく村落警邏に出る際、森川清治郎は弾薬2発(自尽後弾薬がまだ1発残っていたものと思う)を準備して、派出所を出発しようとした。森川清治郎が銃を肩にしているのを目敏く見つけた夫人は、「銃を何故携帯しますか」と、取り上げようとすると、「村落警邏の規定として銃器の携帯は止むを得ぬではないか」とて強いて夫人の意見を斥けて出た。


それから間もない午前9時頃、副瀬派出所部内港墘厝西南にある慶福宮から朝の静寂を劈いて一発の銃声が虚空に響いた。突如の銃声に驚愕と不安を抱いて廟に駆けこんだ廟守の王棍は、常日頃父の如く慕っている森川清治郎が廟の南側に敷いた扉の上に仰向けに倒れているのを目の当たりにした。傍らには咽喉を撃ち貫いた村田銃が冷たく光っている。突然の衝撃に王棍は茫然自失として立ちすくんだ。


続いて駆け寄って来た村人達は慈父のように愛してくれた森川清治郎の屍体を見て声をあげて慟哭した、だが屍には近寄らなかった。後で、官憲に「お前達が殺したのだろう」と、嫌疑をかけられるのを恐れたのである。このような本能にも近い強迫観念は、過去に幾多の政権の苛政を嘗めてきた植民地の人民としての無理からぬ悲哀である。


やがて、悲しみから吾に返った村民達は日本官憲の追求を避ける為、家に駆け戻って家財をまとめ、逃亡の準備を始め村内は大騒動となった。時は丁度旧暦3月、来る媽祖誕辰(旧暦323日)の大祭を迎える為副瀬の部落は多くの人出で賑っていた。午前10時頃、真先に王棍が副瀬派出所に飛びこんできた。この悲報に接した村民230名は不意の驚愕に襲われる複雑な心情で森川夫人に随って慶福宮に駆けつけた。


まもなく東石港支庁から倉皇と急ぎ駆けてきた園部警部と同僚34名は現場の検視をした。園部警部が遺品を点検している際、ポケットから一枚の名刺が出てきたが、それには「疑われては弁解の術もない、覚悟する」の意味が書き付けられていた。この後、森川夫人が駆けてきて「もう大丈夫だから皆寄ってきなさい」の涙声に、村民は森川清治郎の遺体にしがみつき嗚咽した。港墘厝に伝わる祖父の代からの語り草である。


午後3時、慶福宮の西北110メートルの広場で愁傷に咽ぶ村民の万斛の涙と同僚の哀悼の中、告別式を行い、その場で荼毘に付した。翌日、東石港支庁全員に部落民が参列して警察葬を挙行し、骨を富安宮の東南にある公共墓地に安葬した。こうして森川清治郎は身を捨ててまで愛した生前綏撫の地の土と化した。享年42歳、遺児真一は僅か10歳であった。


 光陰矢の如し、20年が過ぎた192325日、副瀬隣接の港墘厝に脳炎が発生し、疫情は激しく、伝染を恐れて恐惶措くあたわぬ27日夜半、副瀬村の保正李九の夢枕に森川清治郎が現われ、身に警察の制服制帽を着し、火を点した警察提灯を手に、顔は慈祥にして生きているが如く門口に立ち、「隣村港墘厝は今悪疫が蔓延している、全村の環境衛生及び各家庭も飲食衛生に注意するように、然れば村は平穏無事になろう」と、告げて消え去った。李九は目が醒め、直ちに全村に森川清治郎の言伝を通達した。村人は、民を愛する森川清治郎が死して後なお寄せる関愛の情に感じ、互いに戒め合い伝染の難を免れた。


感激の極みに、村人は協議して敦く名工周啓元(朴子媽祖廟前の彫刻師)を聘し、高さ18寸の警察制服制帽を着した座像を精彫して義愛公と神称し、五府千歳と共に富安宮に供奉し、永久に村の守護神として奉祀した。又その成道の日旧暦48日を大祭の日と定め、毎年盛大な祭典を挙行して子々孫々永遠に遺徳を顕彰し、線香は舞うが如く火は絶えない。


付記


 この伝記は、森川清治郎の独子真一の妻アイ()が、1973年頃父を偲び、思い出に口述したのと、村の語り伝え及び日本領台時発行の『台湾警察時報』を参照して書いた。自殺の原因には、税金を払えない貧しい人に替って納めていたが、薄給では続かず自殺したとの巷説もある。森川清治郎の自尽に上層は本丸から火を出したように慌てて戒告処分を取り消した。且つ1935年、今川淵台南州知事は警察官の鑑として事蹟を表彰した。この故事は、私が未だ小学生の頃、小学校を巡回して偉人伝を講演してくれた通称「コブの爺さん」志村秋翠氏が『明治の呉鳳』のタイトルで書いている。植民地下で沽券に関わる故か、それとも小学生向けなのか、作文で森川清治郎はぺスト患者救助中感染して死んだと粉飾している。


森川清治郎もあの世で迷惑したであろう。森川清治郎自殺の後、遺族の妻ちよと独子真一は塩水港支庁勤務の同じく警察官であつた広瀬秀臣氏(退官後玉井、善化で代書を業とした)が引き取って世話をした。ちよは、3年後、台南市永楽町(旧名台南市外中街9番戸)胡徳春方にて亡故した。


独子真一は、広瀬秀臣氏の妻の故郷の鹿児島で師範学校を卒業して台湾に戻り、台南州下の公学校(当時の台湾人小学)教師を務め、アイ()と結婚し、終戦後日本へ引き揚げた。真一とアイ()間に嗣子はなく、森川家は絶えた。


 30年程前、訪台する広瀬秀臣氏の外孫岡勲氏(昭和17年岸内出生)は,「台湾の東石副瀬の廟に父森川清治郎が祀られていたが、今果たして残っているか見て来て欲しい」と、アイ()に言付けられた。初めて富安宮を訪れた岡氏は、義愛公は時代の変遷にも関らず、村人に信仰されて祀られていたのを目の当りにし、村人の純誠に感激したと述懐している。


その後、岡勲氏は毎年旧暦48日の義愛公大祭に必ず身寄りとして参拝に来台している。現在富安宮にはご本尊の外に副像が二体ある。一体は森川アイ()女士、一体は岡勲氏の寄贈による。


 税金については、その後税の賦課査定に謬りのあったことが発見されたのか、区長役場からの注意で部落民全部が申告をし直すようなことがあって、翌年からは従前と同じく年税50銭に軽減されたそうである。


 


略年譜
































1861



神奈川県久良岐郡戸太町字戸部266番地に出生(註参照)



1892



兠木ちよと結婚



1893



嫡子森川真一出生



1897



単身渡台、巡査を拝命



1902



47自尽、享年42



1905



126、森川ちよ亡故、享年36



1923



旧暦4月8日成道(義愛公と神称されて神籍に入る)



1957



森川真一亡故、享年64歳、曽て台南州北門郡七股庄土城子公学校長を歴任



1986



森川アイ()亡故、享年83



 (註)


この住所表示は、森川清治郎が台湾渡航した明治30年当時のものであり、出生地である確証は存在しない。最近の文献調査及び現地伝聞情報により、森川清治郎の故地は甲州で、現在の山梨県甲府市大里町在の出身者であったと思われる。詳細は不明ながら、森川清治郎は青雲の志を抱いて出郷、一旦は東京へ出て、その後神奈川県に転入したものと推定される。清治郎には姉が一人いて、名を「か称」といった。清治郎出郷以前に旧甲府市内の柴山家に嫁ぎ、大正二年までは生存していたと思われる。


 


松本征儀



 


後記感言


 台湾各地に数多の日本人が祀られている。が、義愛公森川清治郎を以て嚆矢とする。然も官等は最下級の巡査である。元の台南州下では外に、烏山頭に嘉南大圳の父八田與一、台南市内に鎮安堂飛虎将軍杉浦茂峰海軍飛行兵曹長(昭和19年台湾沖空中戦で戦死した乙種予科練出身)が祀られている。八田與一の廟はなく、記念室と珊瑚潭に面して夫人外代樹女士と合葬の衣冠塚と銅像がある。


後世の人に愛される人は生前に人を愛した人である。愛に国籍はなく、誠の愛は万物の逆旅である天地に時空を超えて息づく。


森川清治郎は、台湾人の生活に身を入れ台湾人の心に愛を点してこそ義愛公と祀られている。森川清治郎は、貧困に喘ぐ善良な村民と植民地で威権を笠に着る上司の板挟みに進退谷まり、最後は、命は義によって軽し、永遠に孤高の人として生きる道を選んだ。自決することによって、ひたむきに生きる人間性は村民の期待に副えぬ如何ともし難き無力感から解放されたのである。


同時に、身を殺して民情疾苦を重視する大義を上層に達した死諌でもある。つまる所、両端を持せぬ個性に生まれついた彼の悲哀だが、その哀しさが昇華して、竹帛に名を垂れ、永遠に偲ばれ尊崇される神と成道したのである。


森川清治郎の義と愛に感恩し、副瀬の村は貧しかった時代から、終戦後の排日政策を挟んで、八十星霜を閲して今日に至るも、一切の政治色を排し、銅臭もなく、虔誠に自彊息まず歴史の落葉を守り続けてきた。


私は台湾人の一人として純朴誠実なこの村を誇りに思っている。森川清治郎と副瀬に纏わるこの故事は琴線に触れ、二つの時代を生きてきた私は、物質の富裕に慣れた現代の人人が忘れ失った人としての矜持と、人生意気に感ずる時代への郷愁をひしと感ずる。


3年前にこの故事を知ってから、私は日本から来訪の級友やお客を富安宮に案内している。こうして度を重ねる中に、一樹の陰一河の流れも多生の縁で、この村の人とも友達になった。異域の鬼となった森川清治郎も故国からの空谷の跫音を喜んでいるに違いない。


去る200077日、森川清治郎は、義愛公の分霊台北県新荘北巡聖安宮の有志者に奉ぜられ、一世紀振りに後嗣も生家も已にない横浜へ里帰りした。台湾から日本へ架けたこのより良き交流の礎になる橋は、横浜の地方新聞に載り一部の心ある人を喚起したが、現代人の肺腑を抉る新聞ではないのか全国に反響はなかった。併し、台湾の信者達は森川清治郎へせめての報恩の念願を達した。


領台50年、日本と台湾の歴史的淵源は深く絆は固い。又、地理的には一衣帯水、なお且つ石垣島、宮古島等沖縄諸島を飛び石伝いにして続いている。惟うに、義愛公は日本人の誇りでもある。だが、その事蹟は数少ない小冊子で簡単に紹介されているだけで、知る人は寥々たるものである。私は、もっと多くの日本人がこの故事に関心を寄せ、訪台の折細やかな郷村副瀬へ枉駕を乞い、生々流転の世に今も台湾人の心の中に生きている気韻生動の義愛公を拝し、旅の思い出を偲ぶよすがになればと、願っている。


今年(2002年)は森川清治郎自尽百周年に当たる。幸いに、317、祖父の代から三代にわたる語り伝えが時の移ろいで忘却される後代への殷鑑に、村の450歳世代の有志が「富安宮義愛公連誼会」を発足させた。蟻の思いも天に届く、この会の誠実な高揚が日本人の交響を呼ぶのを祈って止まない。


           王振榮    200210


義愛公の関係のウェブサイト


義愛公日本語のウェブサイトhttp://www.tokoshokai.co.jp/giaiko/


岡勳先生と松本征儀先生製作


松本征儀E-mailse-matsu@dream.ocn.ne.jp


義愛公のウェブサイト


http://www2.lges.cyc.edu.tw/eac/


龍港小學校の教員と學生の合作


富安宮のウェブサイト(非官方)


http://hgj0949.myweb.hinet.net/


黃國哲製作


富安宮:台灣嘉義縣東石鄉副瀨村57號 TEL:05-3734992


 

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